私が中学2年生の頃、すでに東京で就職していた兄。当時は日本でも「ディスコミュージック」の最盛期に差し掛かった時代で、例にもれず兄も東京でディスコにかなりハマっていたようでした。
盆正月に帰ってくる際に彼はアタッシュケースいっぱいのEPレコードを持ち帰り、実家のステレオでソウルミュージックをガンガン鳴らして踊っていたわけです。
その姿を見せられ、音を聴かされ、ぶっ飛んだのが弟である私でした。なにしろ当時は、チューリップや井上陽水を良い子のごとく聴いていたわけですからソウルミュージック自体がかなりの衝撃。まんまと私もそのサウンドにハマってしまうまでに多くの時間は掛かりませんでした。
それからというもの、自分でもソウルミュージックに傾注していったのは言うまでもありません。あの時の兄の影響がなければ、ここまでブラックミュージックを好きになる事は無かったのかもしれません。
当時、アメリカのテレビ番組である「ソウル・トレイン」は日本でも放映しており、毎回欠かさず観ていたのを鮮明に憶えています。豪華ゲストが毎回スタジオに登場し、くちパクではありましたが彼らのヒット曲を惜しみなく披露してくれたのは本当にエキサイティングだったのです。
私が高校に入った頃、仙台にも「カルチェラタン」や「グリーンハウス」といったディスコが続々登場しましたので、今の40代以上の方々のなかには暴れん坊将軍だった方も多いでしょう。
かくいう私も・・と言いたいところなのですが、実は生まれてこのかたディスコには一度たりとも行った事がありません。ソウルミュージックには開眼したのですが、そういう場所で踊りたいとまでは思わなかったのです。あくまでも、「音楽」として深く傾注していただけのようです。
お便り
ジョン万之助様
懐かしく、拝見しました。「ソウルトレイン」私も、眠い目をこすりながら
見ておりました。また、1970年末期に、アダ花のように咲いて散った
ソウルミュージックは、私の琴線に触れたのか、今でもあのミラーボールを
見るとスイッチが入ります。盆踊りですわね、いわゆる皆で同じ動きで楽しむ。
駅前には「牧人)(檻の中で踊るんでした。グラディエーターのいでたちのお兄さんが
ひざまづいての「いらっしゃいませ」)「大黒天」は居酒屋ディスコ(さんまの塩焼き
イカの納豆和え、鍋物まで。なのに踊っちゃうんです)「ビッグ蘇州」は行ってみたかったなあ、つぶれてしまいましたが。「ラ・メール」が人気ありました。
「グリーンハウス」に至っては、会社では大人しくてしゃべらない宮本君が踊っていて
「なしてオメ! こごさ居んの!?」ってみんなにびっくりされていた事を今でも忘れ
られません
「ソウルドラキュラ」「あの娘とカンフー」「ホットライン」は最高です。
ソウルじゃないですが、「ベンチャーズ」が、えずこホールに来るんです(十月かな)
60~70歳代幸せな年代で、また1970~1980年代もまた楽しい時代でした。
dty martiniさん、ご来店ありがとうございます。
記事の通り、当時の私は恥ずかしくて踊るなどという芸当は決して出来なかったわけですが、「音楽」としてソウルミュージックにはずいぶんハマりました。
黒人の喉から絞り出される音、つまり彼らの「声」はかなり衝撃的だったことを憶えています。
個人的に「似て非なるもの」と感じていたディスコミュージックとソウルミュージック。ディスコミュージック界には一発屋も存在しましたが、ソウルミュージック界は永遠なり。
またおっしゃるとおり、電子的音楽が氾濫する前の1970年代~80年代初頭あたりまでは、ホーン・セクションなども生音でかっちょいい感じでしたね。今でもあの頃の「音」が大好きです。