キャバレータイガー

私が学生の頃、定禅寺通りの人通りはおおよそ宮城県民会館を越して細横丁(晩翠通り)までという感じで、それ以上に西方面へ行くのは花見の時期か仙台市民会館を利用する時でした。

特に細横丁を西へ横断すると出くわす「春日町」という一画は実にハードボイルドな雰囲気で、我々小僧たちにはまったく縁の無い、また心なしか緊張する界隈だったのです。

国分町とは違い夜が更けると一気に静かに暗くなるこの一帯で、砂漠のなかのラスベガスの如く夜な夜な燦然と輝いていたのが、大人の社交場「グランドキャバレー タイガー」でした。

私は学生でしたからお客としてお店に入ったことはもちろんありませんでしたが、当時の客層で30代以上の紳士達と考えますと、今や還暦前後の方々がこの「グランドキャバレー タイガー」を利用された最年少ラインというところなのかもしれません。

ところが、実は一度だけこのお店に潜入したことがあったのです。お客としてではなく、アルバイトとしてチョッとステージ上で仕事をしたのですが、ライトが眩しくてホールは見え辛いわ、そもそも緊張でホールの方なんか見る余裕などないわで、よく憶えていないのです。

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やがて時代とともにキャバレーは閉鎖され、ご存知「パチンコ タイガー」の1号店を出店。そして、その後に仙台市はこの土地を「仙台観光株式会社」から買い取り、跡地にご存知の「せんだいメディアテーク」を開館させたということのようです。

ハードボイルドな街だった「春日町」にこのメディアテークが出来た影響で、街の雰囲気も人の流れもずいぶん昔とは変わったようです。今や晩翠通りの西側にもレストランやウエディング施設等さまざまな店舗が出店し始め、昼夜問わず人の往来が見られるようになりました。

今や「定禅寺通り」は仙台の象徴のひとつとして確立された感があります。 新緑の頃や落葉の頃、もちろん冬のイルミネーションなど、どの季節もその魅力を十分に感じ取ることができます。これからも時代の移り変わりとともに、私たちにいろいろな表情を見せてくれるのでしょう。

お便り

  1. hiroshi shimizu より:

    私は1976年秋頃にタイガーでボーイ、または、赤いガキデカ風の制服でやっていました。あのころは専属の楽団があった。ああいう人は今どうしてるのか。バーテンの上品なおじさんは近所の粗末なアパートで家族で住んでいました。今ごろどうされてるのか。思いは尽きません。

  2. いけみの より:

    もう50年程前におじさんの招きで姉と一緒に何度か行きました。当時はキャバレータイガー若しくはニュータイガーだったかも知れません。実は当時まだ私は高校生の身分でキャバレーの客としては相応しくなかったのですが、行った理由は姉の大好きな森進一ショーがあったからです。ステージの最前列の卓を用意され、目の前に森進一が熱演している状況に感動しましたね。夢のような気分で大人の世界を酔いしれました、もちろん2回も握手して戴きましたし。隣の席には香水の香りに満ちたホステスさんがついてくれて料理もご馳走になりました。翌年は青江三奈ショーにも行きました。偶然ですが青江三奈さんとは仙台駅でも見かけましたよ(笑) 当時の仙台を思い出すたびにタイガーも懐かしく思い出します。