山形の旅で惜しくも次点となった会津若松。この連休、病床についてばかりいるのも何だかなぁということと、寒くならないうちに行っておきたいということで、昨日に思い切って日帰りしてまいりました。
2年ほど前に猪苗代へ行った際に会津若松にも寄ったのですが、時間もなくお城を見ることは出来ませんでしたので、はたして何年ぶりでしょうか。おそらく小学校の修学旅行で訪れた以来だとすれば三十数年ぶりということになり、木刀を買ったこと以外は記憶にありません。
正式には「若松城」と呼ぶらしく、それ以外にも「鶴ヶ城」や「黒川城」「会津若松城」と呼ばれることもあるようです。少し調べてみたところ、非常に多くの城主が入れ替わったことでも知られるこの城は、一年にも満たない期間とはいえ、伊達政宗公も城主として名を連ねています。
1589年、やんちゃな伊達政宗公は豊臣秀吉の目を盗んでこの城を落としたらしいのですが、その翌年すぐに秀吉に臣従し、即刻会津を召し上げられたということのようです。まるで敷金礼金なしのレオパレス転居とも言えますが、仙台城が築城されたのはこの11年後になります。
会津若松市が、この若松城の天守の再建と史跡の保存整備に対して熱心に取り組んだおかげで、実に壮大な景観が膨大な時を経てよみがえっています。市のHPにその経緯やご苦労が記されていましたが、個人的に最も興味を引いたのは、この素晴らしい「石垣」たちであります。
仙台城址にもこのような「石垣」を見ることができますが、土木建築技術にはまったく知識のない私には、何をどうやってこの巨大な石を積み上げたのかまったく見当もつきません。しかしこの石垣がなければ天守を乗せることも出来ないわけですから、まさに土台が命なのでしょう。
数百年前のこの土木技術や建築技術。また現代の高層ビル建築技術。現代は重機を使用するとはいえ操作するのは人間で、結局は膨大な数の一人一人の人間の手によって造られているわけです。私のように手にも頭にも技術の無い人間からすると、想像を絶する世界です。この景観をながめながら、そのような人間の可能性と素晴らしさを再認識させられたのでした。
仙台でも以前から仙台城の再建問題が何度も出ているようです。詳しいところは知りませんが、史跡保存派と観光派との意見対立で話しがうまくまとまらないと聞きます。しかしこうして若松城を訪れてみると、このような城が仙台にも欲しいと思ってしまうのは正直な気持ちです。はたして私たちが元気なうちに何か動きがあるのかどうか、少しだけ期待することにします。